Academic Debateに慣れた視点から見た、Parliamentary Debateの感想
ここからは個人的な感想になるので、私自身がそこまで深くParliamentary Debateを理解していた訳ではなく、大会でも思わしい成績を上げていた訳ではない、ということをふまえて読んでください(文章には少しAcademicの言葉を交えます)。また、Parliamentary Debateに真剣に打ち込んでられる方を不快にさせる意図は全くないので、もしそのような表現があればおわびします。
とりあえず、いくつか試合を経験しているうちに気づいたのですが、Parliamentary Debateではフローシートを取ってくれないので、そもそもこちらが出した議論をジャッジ・相手が全て把握できている、と期待してはいけないようです。極端な例ですが、たとえば、こちらが相手のメリットに対して20秒くらいずつ、10個の反論を散らしたのに対し、相手が全く反論せずに、彼らのシナリオだけを延々と4分間、3回くらい繰り返し語ったとします。この場合、メモ程度しか取っていないジャッジにとっては、1個20秒ずつしかない反論の印象は非常に薄く、4分間のシナリオの繰り返しの方が印象が強いので、場合によってはなぜか相手のメリットの方が勝ってしまう、ということもしばしばおこります。あまりたくさん論点を出すと、ジャッジが混乱して勝手な判断をし始めるので、本当に大切な点だけにしぼって、かなり意識的にゆっくりわかりやすく「ジャッジに優しい」ディベートをしてあげないと駄目なようです(ジャッジは一般大衆、という前提なので、ある意味これでいいのかもしれません。実際、ESUJ大会では、本当にディベートをやったことがない人がジャッジに入ります)。また、「AbsoluteとPartial」とか「根拠に優位性を示して比べる」といった概念も、それほど一般には共有されていませんし、当たり前ですが、Academic系の用語はほとんど通じません。Inherency、superiorityなどはもちろん、irrelevantとかもダメです。
それから、どうやらこのスタイルには「メリットとデメリットの大きさを比べる」という概念そのものが存在しないようです。「このメリットとこのターンアラウンドがとんとんくらいで、このデメリットのうち2つめのシナリオだけは微妙に残って・・・」とあまりシステムっぽいことをやっても、ほとんど理解してもらえませんでした。Parliamentary Debateでは、「どういうスタンスで政府が行動するのか」という部分を重視するようなので、全体としての理念みたいなものを示しておかないと、なかなか評価してもらえないことになります。
なお、当然ながらAcademicのセオリーは全く使い物になりません。Topicalityは「Definition Challenge」という名前でルールには存在していますし、Counter Planも認められているはずなのですが、この辺りに関してはジャッジに理論的な蓄積が全くないので、Academicの感覚で出してもほとんど理解されないでしょう。逆に相手がこうした議論をやってきた時に、「standardを出してviolateしていることを示さないとダメだ!」とか「competitivenessがないじゃん」とか言っても、なぜそれらが必要なのか、という部分からわかってもらえないはずです。明文化された細かいルールがあるために、ディベートの枠組みに関する議論は全くと言っていいほど展開されないので、こうした話は持ち出さない方が無難でしょう。せいぜいマナー点を下げられるのがいいところです。
いずれにしても、Parliamentary DebateはAcademic Debateとは全く別の競技だ、と考えるべきでしょう。「おいおい、いい加減にしてくれ」と思ってしまう瞬間があったとしても、それは最早どちらのスタイルが正しい、という次元の問題ではありません。パーラーはパーラーというスタイルの中で、また別のきちんと一貫したものを持っているようなので(実際、ICUはコンスタントに圧勝し続けている)、それをおぼろげに理解するまでは、勉強だと思って我慢するしかないようです。
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